慶應義塾大学と早稲田大学の創設者である福沢諭吉と大隈重信。2022年は、2人にとって節目の年であった。「学問のすゝめ」から150年、大隈の死去から100年だからだ。自らの意思と判断で前へと進めと促した福沢。失敗しても決してくじけるなと説いた大隈。2023年という新しい年を迎え、2人の声にいまいちど耳を傾けてみたい。
■自らの意思と判断で「前へ進め」
今からちょうど150年前の1872年(明治5年)。福沢諭吉の「学問のすゝめ」の初編が出版された。
日本近代史で、時代を突き動かしたいちばんの書物はなにかと聞かれたら、ちゅうちょなくこの本をあげたい。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という書き出しのことばは、どんな人でも、いちどはどこかで聞いたことがあるはずだ。
「門閥制度は親の敵(かたき)」と福沢がいった徳川の世の中。それとは違う新しい時代がやってきたという強烈なメッセージだった。
初編は「国民の教科書」とよばれるほどのめざましい売れ行きを示した。
福沢は1880年(明治13年)刊の本の序論で、発行部数にふれている。偽版をふくめて22万部が売れた。そのころの日本の人口は3500万人として160人に一人が読んだ計算で、古来稀有(けう)なことだと書いている。今にあてはめると人口が1億2300万人だから、70数万部となる。
人間は平等だという。だが現実には、はなはだ不平等だ。それはなぜか。学んだか、学ばないかによって決まるからだ。だから「学問のすゝめ」を説く。では学問とはなにか。読み書きそろばんからはじまって実用の学である。それぞれが努力して学べば、個人は独立し、国家も独立できる。また、そうしなければならないと論じる。
それは、しばしば引用される「一身独立して一国独立する事」ということばにつながる。自分と国家の運命を重ねあわせる個人がいて、そこには他人や他国に頼らずに生きていこうとする独立心が必要となる。
国家存亡の危機の時代に、日本という国の独立をいかにして守っていくのかという問題と、新しい時代を個人がどう生きていくのかという問題を重ね合わせたところに読む人の心をとらえた面があったのではないだろうか。
しかし、これは幕末から明治のころの話だけではあるまい。現在につうじる面がある。劣後してしまった経済。新型コロナウイルスへの対応で、のたうち回っている政治行政。国家の劣化は幕藩体制の末期と二重写しだ。
そこへ帝国主義の時代と見まがうような、力による現状変更をいとわない2つの隣国。しかも内向き・下向き・後ろ向きで、危機感がとぼしい国民意識。150年前の福沢の問いかけの声が、今あらためてわれわれに届いてくるような気がしてならない。
福沢は地元で有名な漢学者の父が認められずに亡くなった経験から、生まれた家柄で生涯の身分や地位が決まる「門閥制度」を親の敵として戦った。
▼「颯々(さっさつ)」――できることはなんでもやってみる。
▼「智勇」――知恵を信じて勇気をもって行動する。
▼「人間(じんかん)交際」――人と人とがつながって、その輪を広げていく。
▼「独立自尊」――自分で考えて信じる道を進む。
進歩主義で、どこか楽観主義的ではあるが、開拓精神に富み、自らの意思と判断で、前へ前へと進んでいこうとする。これが「福沢スピリット」といえるのだろう。
福沢の精神である「颯々」「智勇」などを、われわれはどこかに置き忘れてきてはいないだろうか。
■あきらめずに「失敗に打ち勝て」
今からちょうど100年前の1922年(大正11年)。大隈重信がなくなった。1月10日のことだった。
日本の近代政治史で人気のあった政治家はだれかと聞かれたら、西郷隆盛と並んで大隈をあげたい。
同年1月17日、日比谷公園で営まれた日本初の「国民葬」への人びとの熱狂ぶりを知ると納得してもらえるにちがいない。
「冬空は曇って、残雪の上を冷たい風が吹き止まない。しかし、日比谷公園は人の渦であった。……沿道の人出は合計で150万人に上り、明治天皇の御大喪以来の雑踏だったとも伝えられた」(岡義武著『近代日本の政治家』)というように、世の中の受けとめ方は明治天皇に匹敵するほどのものだった。
大隈人気の背景を真辺将之・早大教授や伊藤之雄・京大名誉教授らの著作も参照しながらまとめると、次のようにいえるだろう。
まずその政治的な経歴である。
明治14年の政変で政府の要職を追われたものの、自由民権運動の指導者として活躍し、東京専門学校(のちの早稲田大学)を設立した。
日本最初の政党内閣である隈板内閣を組織、すぐさま瓦解するが、一貫して立憲主義をかかげ藩閥政治の打破を叫びつづけた。既得権益の打破をめざし、既成の権力にぶつかっていく挑戦者のイメージである。
そこに政治的なパーソナリティーが加わる。外相当時、条約改正に反対する国家主義者の爆弾で右脚を失うものの超人的な元気さを示した。2度目の首相になったのは76歳だったが、エネルギッシュな言論活動をつづけた。
東西文明の調和といった文明運動や「人生125歳説」を唱え、気宇壮大で未来志向の明るさが持ち味で、夢をふりまく政治指導者だった。
大隈の真骨頂は、失敗におそれることなく挑戦していく大切さということにある。
「諸君は必ず失敗する。成功があるかもしれませぬけれど、成功より失敗が多い。失敗に落胆なさるな。失敗に打ち勝たなければならぬ」――。早大の前身である東京専門学校卒業式での大隈のあいさつだ。「大隈スピリット」そのものである。
福沢没後6年の1907年(明治40年)に開かれた慶應義塾創立50年祭。そこでの大隈の演説記録が残っている(早大編『大隈重信演説談話集』)。
「今日に至って国民が皆先生(福沢)の徳を慕うのは、明治初期における破壊的大運動、日本の思想界に大破壊を加えられた、これが基いである」
幕藩体制を壊したのが福沢なら、その延長線上で薩長による藩閥体制を崩そうとした挑戦者が自分だったと言いたかったのかもしれない。
なぜ人びとがあれほどまでに大隈の死を悼み、国民葬に熱狂したのか。それは先行きが不安な中で虚実とりまぜ、スケールの大きさを感じさせる国を引っぱる政治家への思いだったのではないだろうか。だとすれば、今につうじるものがある。
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