オミクロン株の拡大、その変異株で第七波もあるかも?先の見えない新型コロナ、今回は現状を見据えて、予定を変更して、日本経済新聞記事より「コロナで変貌した世界、どう生きる」からのお話しです。
2年にわたる新型コロナ下での生活は私たちの価値観を変え、社会の諸問題もあらわになりました。パンデミックの中から立ち上がった新たな思想について、若松英輔氏に聞きました。
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これほど人類が同じ生き方を強いられたことはなかっただろう。様々な思想、信条、信仰を持ちながらみなマスクをしている。ひとつのウイルスにより、私たちはつながっていたんだということを、徹底的に教えられた。
コロナ前の我々は「私(わたし)」の幸せを考えて生きてきた。しかし、コロナ禍においてはマスクをせず「私」を通す人たちがむなしく見えた。
「論語」は、自分の利益を追うだけでなく、人とともに生きる大切さを繰り返し説いている。かつての全体主義のように、集団に個がのみ込まれるのには気をつけなければならないが、「私」でありながら「私たち」でもあるという道を探っていかなければならない。
これまで幸せとは所有だと考えられていた。権力や地位、家。しかし、何かを所有することを幸福の条件とする生き方は変えた方がよい。幸せや生きがいは、見せびらかすものではない。
これから必要なのは、発見型の幸せだ。周囲の評価に惑わされず、自らの切なるものを求める。コロナ禍で再評価された精神科医、神谷美恵子は主著「生きがいについて」(1966年)で次のような言葉を残した。「生きがい」とは「それぞれのひとの内奥にあるほんとうの自分にぴったりしたもの、その自分そのままの表現であるものでなくてはならない」と。
当たり前だと以前は思っていた日常が、いかに幸せだったか感じる瞬間があったはずだ。私にも田舎に年老いた母がいる。なかなか会えないが、元気でいてくれてよかったと何度も思った。
コロナは人間の無力さや社会の脆弱さを浮き彫りにした。その現実を生きる上で大切なのは強くあることではない。むしろ弱さだ。弱くなったときにこそ、多くの人に助けられていたと気づくことができる。
誰もが命の危機にさらされた状況で、助けてもらわなくては生きていけない現実を突きつけられた。身近な人に、医療従事者の方々に、そしてマスクをすることでお互いを守ろうとする他人に。そのとき「私」ではなく「私たち」で生きてきたことを思い知った。新生のカギは弱さの奥底にこそある。自らの弱さに気付くことは、他人を思う心を持つことでもある。
大切な人に会いたくても会えない人も多い。つながりと交わりの意味はあまり区別されてこなかった。しかし、直接交わることはできずとも誰かを思い、つながることはできる。つながりは目に見えないが、失われないどころか離れているからこそ深まることもある。
以前の私たちは意図的に忙しくあろうとしてきたが、もっと独りの時間を深め、そこから多くを学んだ方がいい。自分の弱さを知り、つながりの大切さを感じるのは、いつも独りのときなのだから。 |