「ゆめじ」と聞いて何を連想するだろうか。世代によって違ってくるとは思うが、最近の若い世代にはなじみのない言葉かもしれない。
先年94歳で亡くなった、もと宝塚スターに月丘夢路がいる。稀に見る美貌と言われたらしく、宝塚を退団した後、映画界でもトップスターになった。私は晩年の写真しか知らない「ゆめじ」さんだ。
多くの方は遡って、竹久夢二に思い至るであろう。独特な「夢二式美人画」を残した画家であり作家でもある。本名は茂次郎(もじろう)で、夢二というのはどこから付けたのであろうか。大正ロマンを代表するような人物であるが、夢二の美人画と夢二という名はリンクしている。これが茂次郎であったならば、イメージは半減してしまうようにも思えるのは私だけであろうか。名前は大切である。ちなみに、漫画家田河水泡の手元にあった「サーカス」と題する夢二の晩年に近い頃の絵には『夢生』の署名があるとのこと。これならばイメージが壊れることはない。
夢路いとし・喜味こいし(ゆめじ いとし・きみ こいし)は、1937年から2003年まで活動した兄弟の漫才コンビ(本名、篠原博信と勲)。少年漫才コンビとして活動を開始、2003年9月に兄の夢路いとしが死去するまで活動を続けた。1999年には大阪市が指定無形文化財に指定した「上方漫才の宝」。
このコンビ、戦中の活動停止を経て戦後、新しい芸名を決めた経緯とは……
まず兄が、当時東京で活躍していた漫才コンビ並木一路・内海突破の「一路突破」のように、二人でも一人でも意味の通る名前として「いとし・こいし」を考えた。それから、じゃんけんで勝った兄が「いとし」を名乗ることを選んだ。次に屋号を考えるにあたって、月丘夢路のファンであった兄が夢路いとし、弟は昭和初期の代表的歌手、二村定一(ふたむらていいち)のヒット曲『君恋し』から喜味こいしとした、とされている。大スターの月丘夢路はこんなところにも名を残している。
余談だが、二村の『君恋し』は昭和36年にフランク永井がオリジナルとは大きく雰囲気の異なるカバーでリバイバル大ヒットさせているから、年配の方はご存じだと思う。
「夢路より」は160年前にアメリカのフォスターが作曲した歌曲。もとの題は「夢見る人」(Beautiful Dreamer)。
夢路よりかえりて 星の光仰げや
さわがしき真昼の 業(わざ)も今は終わりぬ
夢見るは我が君 聴かずや我が調べを
生活(なりわい)の憂いは 跡もなく消えゆけば
夢路よりかえりこよ
これは訳詞ではなく、津川主一による日本語詞なのだが、中学の授業などで歌われているので馴染み深い。
津川は牧師でもあったので、詞にはその色合いも深いようだし、この作品は、イングランドなどの音楽の伝統を引き、家庭やサロンなどで歌われた優雅で上品な曲でもあるので、心静かになれるのかもしれない。フォスター晩年の貧苦に思いを致しても、それを忘れさせるほどの美しい曲である。
美しい人を心に描き、美しい詞と調べを想い、笑いの如く口角をあげて「ゆめじゆめじ」と口ずさめば、今夜も良き夢への路が広がること間違い無し、と思えてくるが…いかがであろう。 |